「伝道委員を仰せつかって」 A.O.
本年度より伝道委員会のメンバーに加えていただき、心から感謝いたします。
自分自身のことで精一杯の私のような者が、教会の大切なお役目を担えるのかと、たいへん不安ですが、皆さまのお助けをお借りしながら励んでいければと、厚かましくも思っております。
私の信仰生活を振り返ってみますと、いつもその時、その時にかなったみ言葉を与えられておりました。中学からキリスト教主義の学校で学んだ私でしたが、聖書はひとりで読むには難しすぎる言葉ばかりでした。それぞれの年齢でぶつかる悩みを抱えていた日々、礼拝での先生方の説教、上級生や同級生の証、特別なプログラムでの講師の先生方のお話、こうした神さまのみ言葉の説きあかしが私の心に染み込んでいきました。また当時通っていた教会の青年会の仲間たちとは、若さゆえの遠慮ない言葉の投げ合いも少なくなかったのですが、それらは生きていく最も大切なことを教えられた宝物です。
塚口教会への転入会を許されてから、牧師先生や伝道師の先生からは、神さまの救いの確信を与えられ、親しく言葉を交わしてくださる会員の皆さまからは、たくさんの喜びを頂いております。
このように私は、絶えることなく周りの方々から頂いていた「言葉」によって信仰へと導かれ、躓いたり、悩んだりしながらも歩んでまいりました。それはきっと神さまが私を捕まえるために仕掛けてくださった、大いなるご計画のひとつなのでしょう。身近な親しい人たちからの言葉によって私は、知らず知らずのうちに伝道してもらっていたのだと思います。もちろん集会や会合による伝道も大きな意味があり、守り続けるべき大切な働きですが、日常の生活や交わりの中にも伝道の機会が用意されていることも決して忘れてはならないと自省しています。
「言葉が軽すぎる」とか「言葉が届かない」と言われ続けている現在、「言葉」を扱うことはたいへん難しくなっているようです。このような時代に、自分が信じることを相手に伝えるのは緊張感を強いられますし、自分の発する言葉が相手にも緊張感を強いることがあるかも知れません。「伝える」ということも、思慮深さが求められる事柄になってしまいました。また今は聖書のみ言葉さえも、ともすれば刻々と更新され消費され続ける情報のひとつにすぎないと考えられているようです。溢れる情報で価値観の多様化しているなか、神さまの真理を伝えることはますます難しくなり、伝える相手の方への寄り添う気持ちと冷静な行いが求められていると思います。
でもどのような時代でも困難はあったはずです。それを乗り越えて私にまで伝わった神さまのみ言葉に感謝です。神さまは必ず、私たちが進むべき道を備えてくださり、私たちのなすべきことを示してくださると信じています。私には何も確かなことはわかりませんが、み言葉を伝えるという大切さに少しでも向き合えればと願っております。