受洗70周年を迎えて       S..

                                    

 私は、昨年のクリスマスに受洗70周年を迎えました。70年と知って、いったい何歳の時受洗したのかと聞いた人がいます。私の受洗は、私が学んだミッションスクールの中学部3年の15歳の時でした。学院では、創立当初からの「大祈祷日」を拡大した「祈祷週間」が明治末年に始まり、時代を越えて「宗教強調週間」として現在も生きています。

 私が受洗に導かれた昭和26年の祈祷週間の伝道礼拝は、東京山手教会牧師、東京神学大学出身の平山照次先生をお迎えして行われました。残念ながら、先生が説教で語られたことをつぶさには覚えておりませんが、私が生まれて初めて自分の罪を認識することが出来たこと、その罪をイエス・キリストの十字架のご受難の死によって贖われた者であることを知り、涙をポロポロ流していたことを覚えています。最後に先生が「受洗したい人は立ってください」と、呼びかけられた時、「贖いの主イエス・キリストこそ一生を託せる方に違いない。信じて従ってみよう。」と、立ち上がりました。驚いたことに周りのクラスメートも上級生達も次々に立ち上がるのを目撃してとてもうれしかったことを覚えています。神様に捕らえられたとしか云いようがない様子でした。午後の懇談会場は溢れんばかりで宗教部の上級生が涙ながらに感謝の祈りを捧げました。

 さて、受洗するにあたって私どもは未成年であるため両親の同意書を提出するよう求められました。同意書を出した生徒達はそれぞれ学院の計らいを受けて受洗し、クリスチャンとなりました。私の場合、仏壇のある家ではありましたが父は快く同意して、ただひとこと「途中で気持が変るのならやめなさい。」と、釘をさされました。残念なことに私のグループの5名中3名は家から同意を得られませんでした。その方達とは信仰のことを話すことは出来ないまま高齢になりました。みんなすてきな人達ですし、信仰は私自身のことです。もし私がクリスチャンでなかったら? ということを想像する事だけは恐ろしいことです。

 神様から与えられた信仰を失わず、信仰によって生きるために教会生活があります。聖書を学び、神様と自分自身の関係を築かねばなりません。私は大学一年の秋に塚口教会に転会して参りましたが、牧師松木治三郎先生に初めてお会いして驚きました。私が受洗を決心した時、私の罪を認識したことによるものでした。このまま、この教会で学びたい、と心から願いましたのも「自分の罪を知らないで知った神は自分で造った偽りの神だ。神を知るところでのみ罪を知る。」との松木先生のことばに今も原点があると思っているからです。

 (聖書で<罪>とは<神に背くこと>(牧師付記))