「子どもの本について」 K.H.
いつの頃からか、気づけば読書好きな子どもになっていた。両親は、生活に追われながらも、幼稚園で毎月絵本を取り寄せ、小学生になった時、二冊の児童書を買い与えてくれた。それが、小川未明と浜田ひろすけの作品だった。その当時では、それだけでも、感謝すべきことであり、それによって、本を読むということに慣れ親しんでいけたと思う。しかし、その時の感想が、美しくはあっても、悲しい物語ということだったことは、それからの私の読書人生に少なからず影響があった。というのも、やがて、小学校の図書室で、内外の昔話や児童文学作品にふれ、楽しい物語世界に出会い夢中になったことと併せて、子どもの本に必要なものを、後日考えるきっかけになったからだ。大学で児童文学を専攻し、その後、絵本にも親しむようになると、子どもの頃のそうした〝悲しい〟、〝楽しい〟物語体験から、子どもの本の本質とは何かということを考えるようになった。その中で、一九六〇年に出された「子どもと文学」において、石井桃子さん、松居直氏らが、日本の子どもの本には楽しさが必要なのだと主張したことが、他の作家たちも巻き込んでの大きな新しい子どもの本の世界の潮流となっていたことを知った。そして、私自身も、自分の体験から、その〝潮流〟に納得して巻き込まれ今日にいたっている。まず何よりも、「楽しい」物語が大切なのだ。
しかし、私たち現代人にとって、何かにつけ選択することは、むつかしい。各自基準をもっているという自己主張はさかんなのだが、その実、メディアの報道・宣伝に左右されることが多い。話題になっているから‥大人どうしならそれでもよい。けれども、子どもに対してはどうだろうか。子どもの本は、大人から子ども(特に幼児期から小学校低学年ぐらいまでの子ども)に手渡されることが一般的であるだけに、少しばかり慎重であるべきだろう。児童文学書にしても、絵本にしても、宣伝・世評だけで判断するのではなく、自分で実際に手にとってみることが大切となる。その時、基準となるのは、楽しい物語かどうか‥ということだ。けれども、それは子どもたちを喜ばせ、興味をひく題材を取り上げているだけでなく、結末に物語の展開すべてを包括していく〝大切なこと〟が記されているかどうかということだ。それが、〝楽しさ〟の秘密、核となるといえる。子どもに迎合するのではなく、作者自身の世界観が問われているのだ。さらにいえば、選び手である大人(多くは保護者)の価値観ももろに問われているといえよう。そういうと、子どもの個性、自主性、判断力を無視した大人の押し付けだという批判があることも否めないのだが、実のところ、子どもの個性等は、いろいろな体験を経て形成されていくものであり、それだけに、子ども時代に〝大切なこと〟を手渡されたなら、将来の人間形成の助けになると思われる。なぜなら、この大切なこととは、人を愛すること、優しくあること、希望をもって生きることそのものだからだ。それは、いろいろな物語の中に溶かし込まれ、子どもが、人が、いかに生き延びていくのか、心の嵐をどうやって鎮めていくのかを伝えてくれるものでもある。私にとってはキリスト教的世界観に通じ、キリスト教への信仰に繋がる世界といえるだろう。なかなかのどかな信仰生活ではあるのだが、子どもの本の世界だけには厳しい。何を、どのように伝えているのか、どうしても、気になる。これでは、あまり良い読者とはいえない。
けれども、子どもたちは、私以上に厳しい読者かもしれない。子どもの澄んだつぶらな瞳は、まっすぐに物語の本質をみつめている。恐るべし!