本当の「出会い」… T.M.
6月の中高科礼拝でお話させていただいたとき、19世紀フランスの小説家アルフォンス・ドーデの『嘘をついていた女』という作品について触れました。何十年も前に読んだ短編なので覚えているのはもうあらすじ程度なのですが、ある男がある女の人のことが好きになり、一緒に暮らし始めます。ところがこの女の人が重い病気にかかり、やがて死を迎えそうな状況になったので、近隣の村に住むはずのその女の人の親戚に電報を打ちます。ところが、その電報の宛先には親戚など住んでいないことが分かるのです。元気な時は毎週その親戚に出かけていたはずなのに、それが嘘だったとすると、その女の人は毎週、どこへ出かけていたというのか。結局その男の人は、何年間も一緒に暮らした人の死に際に、その人の本当の名前で呼びかけることさえできないことに愕然とするのです。
中高科でこの話を紹介させていただいたとき、それは「私たちは自分でこうだと理解している世界が、何らかの出来事をきっかけとして、突如として違う世界に変わってしまうことがある」という趣旨でお話させていただいたつもりでした。この小説の場合、主人公の生活世界が一瞬にして変わってしまったのは、一緒に暮らしていた女の人が嘘をついていたからです。主人公の世界が突如として変貌してしまった、その原因は相手の女の人の「嘘」にある。中高科でお話させていただいたとき、私はそう思っていました。でも、その後、「あれ、ちょっと待てよ…」という気がして仕方無いのです。女の人は確かに嘘をついていた。その嘘を信じて、男の人は嘘に立脚した世界を築き上げ、そこに安住してしまった。嘘をついていた女の人が悪い…。でも、例えば、その女の人が「嘘」などついていなかったとしても、やはりその男の人は、その女の人の語ることに基づいて彼の住む世界を作り上げていたのではないか。その場合は確かに嘘に基づいて作り上げた世界ではないので、本当の世界、リアルの世界だと言えますが、でも、どうなのでしょう。嘘に基づいて世界を作り上げても、事実に基づいて世界を作り上げても、どちらにしてもそれは「作り上げた世界」ではないか。「嘘」に基づくか「事実」に基づくか、そこには本質的な違いがないのではないか。逆に、相手は事実に基づいて話をしているのに、その話を聞く自分はその事実を歪曲して理解したり、邪推したり、自分に都合良いように解釈するなどして、自分の世界を作る、そういうことだって、私たちの日常にはよくあること、いえ、私たち一人ひとりの日常はまさにそのような「自分の世界」でしかないのではないか、そんな気さえするのです。目で見、耳で聞く情報に「自分」(の価値観や期待、愛情、推測、邪推、防衛本能、その他何でも)というフィルターをかけて、そして自分なりの世界を作り上げる、そんな生き方をしているのではないか。
私たちは本当に人と出会うことができるのでしょうか。サンテグジュペリの『星の王子さま』の中のキツネはこんなことを言います。「それから、あっちを見てごらん。麦畑が見えるだろう? ぼくはパンなんか食べない。だから小麦なんて、何の役にも立たない。麦畑は、ぼくに何も語りかけてこないんだ。それはさびしいことだ。でも、君は金色の髪をしている。君がぼくをなつかせてくれたら、どんなにすばらしいだろう。金色の麦を見ると、君のことを思い出すようになる。麦畑に吹く風の音も好きになるんだ・・・」。ここでは、役に立たない、つまらない現実が「君」を通して意味ある世界に変貌しています。「出会い」を通して世界が変貌しています。これを本当の「出会い」というのでしょうか…。