「あなたは神を信じているのですか?」と、もし誰かに面と向かってそう問いかけられたら何と答えようか、洗礼を受けたその時からそのような問いかけをいつも恐れていました。答えを見つけられずにいたからです。信仰を告白して洗礼を受けたのだから「はい」と答える他に無いではないかと思いつつも、それは自分の心の在り様とは少し違うと感じ、その気持ちに蓋をしたまま「はい」と答えてしまう事には、無難な答えで相手をごまかし騙すような後ろめたさを感じていました。そして何より自分自身をごまかし騙しているように思えたからです。では、何と答えるべきなのか?
「神を信じたいと思っていますか?」と問いかけられたなら、躊躇なく「はい」と答えるだろう。しかし「信じている」と「信じたい」とは似て非なるものだ。「信じたい」とは願望なのだから「今はまだ信じることができていない(信じていない)」という事に他ならないではないか。なにより、いつも自己中心的な思いにとらわれ、神からの呼びかけに応えるどころか逆に何とかしてそれから逃れようとしているそんな心の在り様でどうして神を信じていると言えるだろうか。問いかけられる事を恐れているのは、答えを見つけられずにいるからではなく、答えを知っているからなのではないか、神を信じていないことが明らかになることを恐れているからなのではないか。やはり自分は神を信じていないと答えるべきではないかと。しかし、それなら教会を離れてしまえばよいはずだがそのつもりは無いようだ。
こんな自分の心の在り様に正直な答えは何なのだろうか。そもそも神を信じているとはどのような心の在り様をいうのだろうか。それがわかるなら、自分の心の在り様をそれと照らし合わせることによって答えを知ることができるに違いない。ただ、それには神を信じている人の心の在り様を知る必要がある。しかし、自分以外の人の心の在り様などわかるはずもない。結局、私には答えを出せないのだ。私のような心の在り様が神を信じている人の心の在り様なのだと言うのであれば信じているということに、信じている人の心の在り様とは異なると言うのであれば信じていないということになる。そういう事ではないかと。
幸いと言うべきか、恐れ続けていた問いが私に向けられたことはこれまで一度もありませんでした。それは、キリスト者に対して問うまでもない事だと思われたからなのかもしれません。しかし、もし、今、「あなたは神を信じているのですか?」と問いかけられたなら、「信じているとも言えるし、信じていないとも言える」と答える事でしょう。それがキリスト者に相応しくない答えだとしても、ようやく与えられた答えであり、自分の心の在り様を素直に映していると思えるからです。