「祈りについて」 K.I.
最近、私はクリスチャンにとって「祈る」こととはどういうことか、考える機会を意識的に多く持つようにしました。そのことの契機になったのが三浦綾子著『光あるうちに』という著作を再読したからです。このたび『エルピス』に執筆する機会を頂いたので、「祈る」とはどういうことか、私なりに最近考えてきたことを記そうと思います。
この世に生を享けた人間で未だかつて祈りを行ったことのない人間はいないと思います。「無神論者」を標榜していたレーニンでも仕事がうまくいかなかったときは神に祈ったと読んだことがあるし、昨年はコロナ禍で外出しにくい状況でしたが、日本人の多くは正月に初詣を行いに神社やお寺に行きます。その意味で多くの人はやはりどこかで宗教や祈りとつながっているのではないでしょうか。このことを踏まえた上で、まず私は何に対して祈るのか、このことからみてみましょう。
当たり前のように思われるかもしれませんが、私の祈る対象は神です。日に数度神様を意識し心の中から言葉を紡ぎだします。認識の対象ではなく信仰の対象として神に祈ることは、神様との対話です。私にとって祈るときが最も神様が傍にいてくださることを感じ、厳粛な気持ちになれるときです。
祈る内容は様々です。特に私が苦難に遭って苦しいとき、祈るべき対象・祈りを聞いてくださる神様がいてくださることは私の支えになります。昔教会で「苦しみから生じる悩みの吐露は、人に話すと愚痴になるが神に話すと祈りになる」と教えられました。これは「祈り」の神髄の一端を示していると思われます。苦しいこと、悩み、耐えられないこと、すべて神様の前に祈ってさらけ出せばよいのだと思います。また「祈りは粘り強くあらねばならない」とも教わりました。一度や二度祈っても聞き入れられなかったとあきらめてしまっては、本当の祈りだと言えないのではないでしょうか。それこそ祈りが聞き届けられたと確信できるまであきらめずに祈ることが必要です。ある人は、友人が洗礼に導かれるように五〇年間祈り続けて、その祈りが聞き届けられ、その人はクリスチャンになったということも本で読みました。五〇年間も一つのことを祈り続けるとは気の遠くなる話です。このようなことを書きながら信仰心の薄い私は、果たして同じことをできるかどうか心許ないのですが、この精神だけは見習わなければならないと考えています。
ここで肝心なのは、祈ったことが何でも自分の願ったように聞き届けられるというのではなくて、神様の御心において最もよいと思う形でその祈りは聞かれるということです。私も、祈った内容が自分の願ったような形ではなく思いもかけぬ結果になった経験をしたことがありますが、後になって考えるとむしろその方がよかったという思ったことが何度かあります。その意味で神への祈りは必ず聞き届けられると信じています。
最後に、自分のためだけでなく人のために祈ることが重要であることは、前述の三浦綾子も述べています。皆様の周りには皆様が気づかないところで困っている人がたくさんいらっしゃいます。自分一人の救いだけを祈るのではなく他人のためにも祈り、その人も救われることが最終的に皆様の幸せになるのではないでしょうか。「悲しみの中にある人には慰めを」「絶望している人には希望を」「病やけがの中にある者には癒しを」「飢えている者には必要な糧を」「争いと憎しみのあるところに和解と平和を」与えてくださいなど、祈ることは多くあると思います。自分だけの祈りにとどまると、自分の悩みにのみ執着するきらいがありますので、俯瞰的な目で「祈りの網」を大きく広げて祈っていただきたいです。