荒れ野で名前を呼ばれる      T.O

  

母は教会から送られるお便りをきちんと綴じていつも台所の片隅に置いていた。大学受験の勉強に疲れたある夜更け、冬の寒い台所で何となく目に止まり、読んでみた「エルピス」は、何度も目を通したくなるような心に響いてくる言葉であった。‥‥人は誰もが人生のどこかで、荒れ野に立たされるものです。挫折や病気があり、災難にあったりします。たといそうでなくてもいつか孤独な死を迎えることになるのです。人生の厳しい荒れ野に立つのです。しかしその時にこそ、はっきり見えてくる恵みと命の世界があるのです。何の功績もなく、罪深く破れた者に、まさに荒れ野にいる者に神の方から、向こうから限りなく近づき、見えてくる世界があるのです‥‥。私は同志社の付属の女子中学、高校に通っていたので、ほとんど全員が内部進学で同志社大学か同志社女子大学に進学した。同志社にない学部を志した者だけが外部受験をすることになる。医学を志した私はまさにエスカレーターから降りて、どうなるとも分からない荒れ野をさ迷っている状態であった。受験戦争がないところで伸び伸びと人格を育てる学校と言われていた学校で受験を選び、うまくいかずに浪人し‥‥そういう時に読んだ「エルピス」は私の中ではコペルニクス的転回を起こすような言葉であった。平穏だけがいいことではない、と書かれていた。徹底的に砕かれ、助けのないようなところで、人は神の呼びかけを聴く。‥‥いつまでも浪人を続けていいものではないと父に言われ、内部推薦ではなく同志社大学の神学部を受験し、入学許可証を頂いた。面接をされた神学部の教授が、合格すればまずは医学を学びなさいと言われ、医学を学び精神科医になった。

 

松江市のクリニックで精神医療の一端を担って10数年が経った頃のことである。古くからの塚口教会の会員であった両親はすぐ隣に住んでくれているが、その両親に「エルピス」を書いて送って下さっていた山崎英穂牧師が、松江の近くの境港教会で説教をされるという知らせが入った。両親と私とで道に迷いながら境港教会を訪ねて、礼拝に出席した。そこで説教を聴き、心が解かれる感覚、やっと心からの安堵を得たという感覚は忘れえぬ体験となっている。丸ごとの自分の存在が受け止められ、自分の名前が神に呼ばれた安堵感‥‥。荒れ野をさ迷っていたのだと気づかされた。その日の説教は「あなたがいなければ」というタイトルで、ルカ15章:17の説教であった。100匹の羊を持っている羊飼いが、その一匹がいなくなったとき、あとの99匹を野原に残して、見つかるまで捜しまわる話である。羊飼いは私たちにとっては同じ顔に見える羊の顔一匹ずつを知っていて、その名前を呼ぶとその羊が近づいて来るそうだ。迷い羊、一匹の羊がかけがえのない存在としてあたたかい眼差しで受け止められる。養育環境や障害、病気、不条理‥‥自主決定でないどうすることもできない限界の中で、嘆き、呻き、のたうちまわりながら、荒れ野を迷い羊のようにさまよっている時に聴く神からの声「あなたがいなければ」‥‥。その日の説教を聴き、荒れ野をさまよっている迷い羊を牧者といえる牧師が探しに来られたように思い、その後私は受洗に至った。そして存在そのものを受け止めるように荒れ野で名前を呼ばれた体験は日々の診療の基となっている。