薔薇の花に思うこと I.N
半年ほど前、テレビをつけながら朝食のあと片づけをしていた私は、「これで自分を好きになれるかい?」という声に思わず画面を見ると、ナレーターの男性がバラに向かって話しかけていました。それはBS放送の「プレミアムカフェ」という番組で、イギリスのバラ園の特集をしていました。思わず引き込まれて見ていると、可憐なバラで埋め尽くされた庭園の映像が出てきて、あたり一面に美しい白やピンクの小さなバラが咲き乱れているところが映し出されていました。整然と造られたイギリス庭園の一角でした。こんなに美しいのに、ナレーターはどうしてこのバラ達に「自分を好きになれるかい?」と問いかけたのだろう、と私は不思議に思いました。すると続いて解説があり、イギリスでは歴史的に大輪のバラ、すなわち一本の木に一輪の大きく見事な花が咲く、そのようなバラが価値の高いものとされ、一本の枝に数多くの花をつけるこのような小さいバラは高い評価を受けて来なかった、というのです。
しかし、ナレーターは続けます。確かに大輪のバラは、一本の木に大きく咲き、人の目をひくかもしれない。ただ、木の丈はそんなに高くない。でも、ここに映っている小さなバラは大きく広く枝を張り、そこにいっぱい花を咲かせる。その長く伸びたしなやかな枝で高いアーチを形作り、人々が散策する庭園の小径を彩ることも自由自在だ。しかもその一輪一輪から良い香りを放ち、そこを通る人々を楽しませてくれる。これは、この小さなバラ達だからこそ出来ることで、一つの花では到底できないのだ、と。今では、この小さなバラはたいそう人気のある品種となり、ヨーロッパの庭園を造る時、一本の枝につく花数の多さと枝ぶりの豪華さから、なくてはならない品種である、ということでした。
なるほど!!と思いました。ナレーターは、バラたちに愛情をもって確認したのです。「君たちは、自分の素晴らしさに気づいたよね」と。
私はちょっとほっとしました。そしてほっとした自分に驚きました。なぜ、この「自分を好きになれるかい?」というセリフにこんなに心を動かされたのだろう…それは、きっと私自身に語りかけられたような気持になったからだと思うのです。
中学高校の頃、私は自分を好きになれないことがよくありました。自信がなく、人と会うのが億劫で、学校に行くのが怖かった時もありました。なぜ好きになれなかったのだろうと今は思いますが、10代の私にとっては深刻な悩みでした。
神戸女学院中学部に入学した時、私達は学院の標語である「愛神愛隣」の聖書の箇所を毎朝礼拝で全員で暗唱しました。マタイによる福音書22章34節から40節です。その後半部分:
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するように、あなたの隣人(となりびと)を愛せよ。これら二つのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている。」(口語訳聖書)
この2つが最も大切だ、ということを教わりました。
自分を愛することの大切さをイエス様はおっしゃっておられたのに、自分を後回しにして隣人を愛するという自己犠牲的な愛し方を価値高いものと当時の私は思っていたため、自分の不完全さばかりが意識され、それは自らの罪のゆえだと思うと自己否定に陥るしかありませんでした。そんな中、教会の礼拝で(中高科だったか大人の礼拝だったか覚えていないのですが)「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」というローマの信徒への手紙8章26節後半の箇所を知り、祈れなくてもよいのだ、神さまはすべてをご存じなのだから、とわかると安堵の思いが与えられました。
神さまが私を愛し、今までの道のりを日々共に歩んで来て下さったことを深く感謝し、その大きな愛を原動力として隣り人を愛しつつこれからも歩んで参りたいと思います。