✧エルピス(ἐλπίς希望)~信徒のあかし~

「顔」                                              Y.U.

 

 

 40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉を聞いたことがあるが、という書き出しで小論文を書いたことを最近思い出す機会がありました。35年前、関学神学部を受験したとき、論述のテーマが「顔」でした。そのとき私は、おもしろい、これなら書けると確信したのと同時に、「顔」というテーマを出してきた神学部もさすが(何がさすが、なのかわかりませんが)と単純に感心した記憶があります。与えられた1時間ほどの間に私はだんだんそれが入試であることを忘れ、一心不乱に17歳らしさ満載の壮大な夢や思いを書き連ねました。

 17歳の私からすると、40歳は立派な大人で、その頃には自分自身の生き方が顔(表情)にあらわれる、だから自分に正直に生き続けることが何より大切で、神さまの前に恥ずかしくない思いで立てる私でありたい、と願っていました。今、とうに40歳どころか50歳も超えた私、自分の顔に責任を持てますか、と言われたら、それでも私なりに「はい」と言えるような気がしています。

 最近みたドラマのなかで、「人生に失敗はあっても、失敗した人生なんてないと思う」という言葉がでてきて、本当にそうだと納得したことがありました。この歳までいつも清く正しく生きてきたわけでもなく、あら?という失敗もしながら、でも、私であることに責任を持ちつつ、自分の人生をおもしろいものとして楽しんできました。

 そんな私がかつて書いた「顔」について思い出すきっかけになったのは、私たち家族が思いがけない出来事に遭遇し自分たちの力だけでは乗り越えられない壁にぶち当たったとき、それを誰かに聞いてもらうという新たな道を見つけたことからです。

 キリスト者として生きてきて、自分自身の信仰も問われるような事態になったとき、そこで示されたのは、同じキリスト者として生きている仲間、友人たちの存在でした。卒業以来30年近く会う機会がなかった同級生や先輩、後輩たちを訪ねまわり、話を共有してもらう、ということをするなかで私は多くのことを感じさせられました。

 17歳だった私が抱いていた「顔」。その頃から親しくしてきた仲間たちの今の「顔」に再び出会えたことは、大きな喜びとなりました。それぞれの場所で牧師や教員をしている彼らの、それぞれの人生を聞いたり知ったりするなかで、人から信頼されてまじめに生きてきた人は、時を経てこんなにすてきな「顔」をしていきいきとすごしているのだと心底嬉しくなりました。助けてほしいという思いを語ったら、信じて受け入れてくれる優しさあふれる「顔」。祈りましょう、と私たちのためにその場で祈ってくれる「顔」。

 今までの私は、何か壁にぶつかることがあっても、自分の力で何とかしよう、いや、何とかなる、と思っていました。今回、私の人生ではじめてのことかもしれない、弱さをさらけだす、という体験。そうすることで自分自身の小ささに改めて気づかされながらも、感謝する気持ちがどんどん大きくなってきました。神さまはやっぱり大切なことをそのときそのときに与えてくださるのだと思います。いつも強くいなくては、と思いがちな私に、弱さのなかにこそ見えるものがあると教えてもらった出来事でもありました。

 

 私なりの「顔」で与えられたときを感謝しながらすごしていきたいと願っています。