私の始まり

                    Y.A.関西学院大学神学部派遣神学生)

 

こんにちは。関西学院大学神学部3回生の学生です。自己紹介をかねて私の信仰の始まりについてお話したいと思います。私は大阪の出身で、クリスチャンホームで育ちました。両親も両祖父母、曾祖父母、その前と一族でキリスト教を信仰しており、私は5世とも6世とも聞いたことがあります。そのような家で育ったので、教会に通うことは、生活の中の当たり前の習慣となっていました。私の信仰の分岐点は2回ありました。小学校である程度過ごすまで、普通の子どもはみんな教会学校に行ってるものだとすら思っていたほど、私の中では教会という存在が当たり前の居心地のいい場所でした。幼稚園の卒業のタイミングで聖書をもらいました。 

私の通っていた教会では、聖書は小学生以上で読んでいたため、聖書を読むということで少し大人になったような気持ちになり、四六時中読んでいました。聖書を読んでいるうちに、「神様とは?」「恵みとは?」など聖書に書いてあることに興味を持ち始めました。今思えばこの頃から、「当たり前の生活」から「自分の意識」に変わっていったのだと思います。明確に自分の信仰というものがあったわけではありませんが、生まれてからの日常によって当たり前となっていっていた「信じる」というものから自分の考えを持って「信じる」ように変わっていきました。そうして、小学生から高校生まで教会で過ごしてきました。その間は、信仰という意味では大きな変化はありませんでした。部活はしていましたが、教会の優先度が高く、教会から離れることもありませんでした。

高校2年生のときに好善社が主催するタイ国青少年ワークキャンプに参加しないかと言う話が教会から来ました。このキャンプではタイにあるハンセン病の患者が集まっていたコロニーに行ってワークをするものでした。その事前学習として、日本の元ハンセン病療養所に行く機会があり、そこでの出会いが2回目の分岐点となりました。当時、進路が決まっておらず、なんとなく行けそうな大学に進学しようとしていました。ワークの事前学習に参加したときに、同じ参加者として、神学部を卒業した方と神学部1回生の方がいました。そこで普段自分の興味の中にあった聖書を勉強する学問があるということを知り、自分の信仰を見つめ直すことにもなりました。それまでは「信仰」とはただ信じることだと思っていました。しかし、このワークキャンプを通して、なぜ信じているのか、自分にとってのキリスト教とは何かを考えました。家族に連れられて教会に行っていましたが、中学、高校と部活が忙しくなり、教会の友達と集まらなくなっても、自分が残り続けた理由は、教会が自分から来たいと思う居心地のいい場所、神様を感じることができる場所だからと気づきました。神学との出会いは私にとって神様の導きだと思いました。聖書には「求めなさい。そうすれば与えられる。」とあります。当時の私は光を求めていました。やりたいことが見つからず、受験へのモチベーションを失い、目指すものがなかった私に対して、神様は進むべき道を示してくださいました。私はこの出来事を神様からの召命だと思っています。これからも神様に従い歩んでいきたいです。