「父への道」 ヨハネによる福音書14章1-11節 

 

村岡博史牧師 

 本日の聖書で登場するのは、イエスさまと弟子の一人のトマスとフィリポ。場面は、イエスさまが十字架につけられる前の晩。弟子たちとの「最後の晩餐」の直後。弟子の一人のユダは、イエスさまを官憲に引き渡すため、出て行ったばかり。十字架刑の前の夜、いよいよイエスさまが逮捕される時が迫っていた。周りにいた弟子たちは、たった今、慕うイエスさまの口から、お別れのような言葉を聞いた(13:23)。不安になった弟子たちを代表して、一番弟子のペトロが不安な気持ちを押し殺して、強がる言葉を投げた。

 今日は、その続きの場面。イエスさまは、弟子たちに「心を騒がせるな。」と言われた。しかし、そういうイエスさまご自身も、これまでの場面で何度かご自身が心を騒がせた。つまり、「神の子」イエスさまが、人間性を備えた方であることを示された。例えば、ラザロが若くして亡くなった時 (11:33=興奮して)。また、十字架の運命を感じ取られて、「今、わたしは心騒ぐ。(12:37)と言われた。さらに、「最後の晩餐」の時、<裏切る弟子がこの中にいる>と宣言された時も「心を騒がせ」た(13:21)。イエスさまが心騒がせたのだから、弟子たちや私たちも、不安なことがあれば、心を騒がせることは自然なこと。

 でも、イエスさまは神に等しい方。いつまでも心を騒がせたままではなかった。すぐに立ち直られた。なぜか?神様はご自分の父であることを知っていたから。ヨハネ福音書の1章によると、天地万物を創造された神とその独り子としてのイエス・キリストが一体である(1:18)。創造者がご自分の父であることを知っていたから、すぐに立ち直った。だから、私たちにもイエスさまは命じられた。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」創造者は、被造物を、造られた物を大事にする。私たちが自分の渾身の作品を大事にするように。誰もが神の<渾身の作品>の一つ。ただ、どこか一部欠けた器同士。だから、なおさら神は私たちを大事な存在と思っておられる。

 「神を信じなさい」という言葉の原文を直訳すると、<信じなさい、神に向かって>となっている。方向を指し示す前置詞が用いられている。ですから、迷った時、どちらの方向に進むべきかを迷った時、神を探しなさい。神の想いを探しなさい、ということ。しかし、これには<熟練>が要る。普段から神とお付き合いしている必要がある。ただ、旧約聖書創世記3章で登場する最初の人間アダム以来、人間はどうにかして創造者である神から隠れよう、離れようとしてきた。それを聖書では「罪」という。誰もが「罪びと」。では、神から隠れた人はどちらの方向に顔が向くのか?偶像に心は向く。神以外のものは全て偶像となる。たとえば、自分、家族、著名人、富、占い、仕事、恋人。神に顔を向ける位なら、その時間をありとあらゆる偶像をむさぼろうとする。旧約聖書は、そういう人々がどのような困難を迎え、むなしい結末に至ったかをありのままに記している。しかし、同時に、父である神が「罪びと」を救おうとしてきた歩みを語る。その究極の方法が、神の独り子を地上に送り、罪を身代わりに背負わせ、十字架で裁くというものでした。だから、1節でイエスさまは謙遜に語る。「そして、わたしをも信じなさい。」と。

 イエスさまを信じるべき根拠は何か?イエスさまが挙げる根拠は、父の家にあるあなたのための住まい。私たちのために父なる神は、素敵な住まいを用意してくださっている。それがイエスさまを信じるべき根拠という。では、父なる神のもとにある私たちの家とはどこにあるのか。2節でイエスさまは現在形を用いている。また、「住む所」は複数形。つまり、私たちのための「住む所」はすでに多く存在している、という。

では、どんな家なのか?それを示唆するのが3節。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。とイエスさまは言われる。「あなたがたのために場所を」の「場所」は単数形。場所は一つだが、それは私たちのために備えられた一つの居場所。実は、「住む所」「場所」とは教会。教会は、世界中に複数あり、同時に、その中には私たちそれぞれの「住む所(=居場所)」がある。なぜそう言えるかというと、「戻ってきて」とは聖霊降臨の出来事を指すから。黙示録等に記される「最後の審判」や「キリストの再臨」のことではない。また、1415節以下で<聖霊を与える約束>が記されているから。

教会の三大祝祭日の一つ、聖霊降臨日(ペンテコステ)は、今年は523日。聖霊とは、神の霊であり、同時に、神の独り子イエス・キリストの霊。使徒言行録2章によると、聖霊が弟子たちに降ったから、最初の教会が生れた。時を超えて私たちの教会も聖霊の働きで生まれた。キリストは聖霊として戻ってきて、教会という私たちの居場所を創られた。教会とは信者の集まりのこと。建物ではない。信者の集まりとしての教会は、世界中にたくさんあり、そこには必ず私の居場所がある。イエスさまはその場所はすでにあり、そこにあなたがたを迎えるという。つまり、イエスさまが私たちを招いた。聖霊が私たちを教会に招かれた。あらかじめ部屋を用意してくださっていて、わたしの居場所を備えてくださっていた。礼拝に参加することはその証拠。聖霊としてのイエスさまが私たちを招いてくださっている。教会とは、地上に父なる神が備えてくださった私の居場所であり、心の「住まい」。

 

 イエスさまは、3節でそのすまいを「用意したら」と言われる。この「用意」とは具体的に何をさすか?…十字架を指すと考えられる。十字架の前の晩の出来事。イエスさまの父である神様側がなさる「用意」とは、愛する独り子を不信仰という「罪」に汚れた、私たちの代わりに十字架につけて裁くこと。父なる神の独り子の十字架があるから、「罪びと」の罪が赦され、<赦された罪びと>たちの心が「住む所」としての教会が準備された。教会が生れた。さらには十字架の後、父なる神の独り子イエスさまは復活され、その後、天に上げられ、代わりに聖霊を遣わされた。これら全てが、神様側のご用意=準備であった。神様側がそれほどにご用意くださって初めて、「こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」ということが実現された。原文で主語は「私(イエス)」。イエスさまが主導権をもって私たちを導き入れてくださった。これまでの努力や能力や貢献度が評価されて、合格したから入るのではない。一方的にイエスさまが私を拾ってくださった。

 ただ、この時は十字架の前夜。イエスさまは4節で「わたしがどこへ行くのか。その道をあなたがたは知っている。」と語られた。行く所をイエスさまは弟子たちに度々示してきた(7:338:21)。それは十字架に向かう道。6節でイエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われた。これは重大な宣言。(<神顕現定式>が登場)ここで「」が場所ではなく、復活者キリストとの人格的な交わりであることが宣言される。この場合の「」は、神の子イエスさまの十字架を指す。神の子の十字架を避けて(認めずして)、父なる神へ至る道はない。主イエスが備える教会という「住む所」への道はない。イエスさまは、「ゾーエー」と語る。これは宗教的な「永遠の命」を指す。生物としての生命ではない。それは、キリストがお持ちの資産であり、私たちに相続させたい<宝>。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない(14:6)…つまり、神の子の十字架を避けて、父なる神との出会いと和解に通じる道はない。神が私のために備えてくださっている「住む所(居場所)」への道も、真理も、永遠の命も、<十字架のキリスト>を通った人だけが入る。<十字架のキリスト>を受け入れた人が入る。教会には私のための「住む所」がすでに整えられている。

 16世紀の宗教改革者.ルターはこの箇所について、読者にある覚悟を問う。つまり、中間的な領域(グレーゾーン)は存在しないと語る。「すなわち、キリストのほかにはサタン以外のものはなく、恩恵のほかには怒り以外のものはなく、光のほかには闇以外のものはなく、道のほかには誤謬以外のものはなく、真理のほかには虚偽以外のものはなく、命のほかには死以外のものはない。() なぜなら、神は悪魔と仲良くできないから。神の仲間になるか、サタン(悪魔)の仲間になるか、どちらか選ばなければならない。グレーゾーンはない。これはなかなか厳しい。でも、十字架の前夜、身代わりの死が迫ることを覚悟された神の子が、遺言のように弟子たちに語られたこの言葉を軽んじてよいだろうか?十字架の死へと向かう前夜のイエスさまの言葉に、どう応答するかは、究極の「自己責任」。我々には背く自由もある。受け入れる自由もある。結果責任はそれぞれが背負う。

イエスさまの問いかけにとまどう、弟子たちの背中を7節でイエスさまは押された。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」と。「知る」は、このヨハネ文書ではイエス・キリストに出会い、信仰に至ることを指す。それは、救い主イエスに心を開いているありよう。閉じていないこと。キリストに自分を開きますか?それとも閉じますか?と問われている。

 

 問いかけが重すぎるので、耐えられなくなった弟子のフィリポが思わず口を開いた。8節「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と。…これはキリスト以外に神を見ようとする誘惑に負けた人があげる声。キリスト以外の所に、たとえば、富、有力者や著名人、占い師、時の高僧などに、神を見ようとする誘惑に出会う人に対して、イエスさまは9節で、神を認識する道はキリストの他にはないことを、謙遜をもって示された。これは十字架と復活のキリストを指す。イエス様を見て、御父を見たと信じられない不信仰な姿。トマスやフィリポは十字架も復活も知る前であるから仕方がない。しかし、我々は既に知っている。この後、イエスさまが十字架にかかり、葬られ、三日目に復活されたことを聞かされている。父なる神の独り子の十字架と復活を受け入れて、初めて御父を知る。そして、満足する。神は正義を示し、罪と悪に勝利されることを知るから満足する。

 中世の大洋を渡る船乗りたちは、ある意味で学者たちより賢かった。夜空には、決して動かない星が一つだけあることを知っていた。その星の場所さえいつも知っていたら、目的地に着くことを知っていた。(キリストという)動かない星を見つめ続けて人生の目的を果たすか、動く星々や季節ごとに消える星々を見つめて「漂流」するか、いずれか。

 不信仰な姿をさらしたトマスやフィリポに、9節でイエスさまは助け船を出された。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」私たちもトマスやフィリポ。父なる神を見たいと思う。ただし、畏れ多い神を直接見ることは赦されない。しかし、神の独り子がその願いに応えられた。イエスさまの奇跡を含めた不思議な出来事を全て、伝え聞いて信じた。その人々に復活者は言われる。「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』(ヨハネ20:29) 

 誰もイエスさまのなさった業を直接見たわけではない。しかし、信じた。神の独り子が私たちの不信仰で自己中心なありようを身代わりに背負われ、十字架で父なる神から裁きを受けられたことを信じた。復活されて弟子たちに現れたことを信じた。イエスさまは今日も問われる。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(完)

 

 

()「奴隷的意志について」『ルター著作集 第一集 第七巻』,聖文舎,1966,p.472