そんなのってあんまりだ   M.A.             

 

人波が戻り利用者で溢れる新大阪駅。ビジネス。観光。それぞれの目的地へと様々な思いを抱き通り過ぎていく人たち。まさかそんな中で失意のうちに立ち尽くすことになろうとは…。

2023年4月。九州に住む妹を訪ねるため新幹線の乗車駅・新大阪へ降り立った。乗車までに時間はある。お土産も買った。あとは事前に予約しておいたチケットを発見するのみ。駅の自動発券機へ向かい操作する。…おかしい。発券できない。何度やってもダメだ。焦りながら何度も繰り返すうちに予定時刻はすぎ、乗る予定の新幹線は行ってしまった。そのあと知ったが、私が予約した旅行会社発売の格安のチケットは通常の「みどりの窓口」では発券できないようだ。お値段が安いというのはそれだけ制約があるということで、乗り過ごしてしまえば変更はできない。完全に一から買いなおさなくてはいけない。「そんなのってあんまりだ…」顔を覆って立ちつくしてしまった。今にもくずおれてしまいそうだった。

思えば子どもの頃からいつもそうだった。予約を間違える。必需品を忘れる。そして、損をしてしまう。人生の選択肢を乗り物に例えるなら、乗る予定の電車や飛行機や船に大事なタイミングで乗り過ごし、先に去っていく人たちを見送るようなことが何度もあったかもしれない。おそらく私だけでないと思う。当然乗れるだろうと思っていた乗り物に、進むだろうと計画していた道に行けなくなることが人の生きる上では往々にしてある。順風満帆に思える人生に突然大きな穴が空いて、乗る予定だった列車を見送らなくてはいけなくなる、そんな瞬間が。

取り直した新幹線の座席に揺られながら「起こらなかった方がよかった失敗にはどんな意味があるのだろうか」そう考えてみた。いや、何か意味を見出さないとやってられないというのもある。まだ少し損をするくらいの失敗ならかわいいものだが、取返しのつかない失敗や悲しみ、苦しいことが起こる人生をくさらずにどう生きていけばいいのだろうか。こんなときキリスト教の世界ではよく「人間には計り知れない神様の大きな計画があるのだ」と言ったりする。確かに人間の時間では分からないことがあると思う。しかし、いまこの瞬間に悩んでいる「私」という人間にとってどんな慰めがあるというのだろうか。いつか分かる神様のご計画というのはそのときのお楽しみとしたい。現在という時間において考えると、やり場のない思いを吐き出せる方がいてくださるというというだけでやはりとても救われるものだと思ったりする。旧約聖書の詩編にも神様に対する泣きわめきがたくさんあるように、私にとっても地団太踏んで、転げまわるしかないような時に、きれいな言葉じゃなくて大声で泣きわめくしかないような時に、それでも確かにこの声を聴いて下さる方がいて、受け止められているというのはとてつもない安心感があるのだ。そして教会に来れば(解決策は見つからないかもしれないが)私の悩み、苦しみを思い一緒に祈ってくれる人たちがいる。

 

神様を信じることでご利益が得られるわけではないが、揺るぎない方が自分をふところに入れてあやしてくださる。幼い子どものようにしがみついて泣いてもいい場所が今も用意されている。難しいことはまだ分からないかもしれないが、今はただそれでけでいいのだと思う。