「古典を読む会」について  M.N.

             

 「古典を読む会」の第一回は、二〇〇六年二月である。その間、コロナのために三年間の休みがあったが、延べ十七年間、「源氏物語」の「桐壺」から始め、「雲隠」まで月に二回隔週で読み終わり、現在は今年の二月から「宇治十帖」を「橋姫」から読み始めている。メンバーは常時十人前後である。教会以外の方の参加者もおられる。出入りは全く自由である。少しでも「源氏物語」や日本の古典に興味のある方は、是非一度のぞいていただければと思っている。私達も教会外の色んな視点をもつ方々とお話できれば、と願っているものである。

 「塚口教会」で「源氏物語」を読むことになった切っ掛けは、読書が大好きなのに目が悪くなり、自由に本が読めなくなった、と言われる教会員の方が居られ(その方は自身でも童話などを書いておられた)、嘆いておられたので、では私が読みましょうか、ということになった。そしてその方が読みたいと云われたのが谷崎潤一郎の「源氏物語」であった。読み始めてすぐに、同じ読むなら原典でも読みませんか、(筆者の専門が古典でもあったので)ということになり、巻一の「桐壺」から読み始めた。初めは三人であったが、教会でも読めることになったので、いつの間にか十人前後の会となっていった。

 この読書会が十七年も続き、正編四十帖を読了し、「宇治十帖」に入ることができたのは何よりもこの「源氏物語」のもつ素晴らしさ、作品のもつ魅力によるものであった、と思う。十一世紀の初めに、世界中を見渡しても、人間が生きるということをこれ程すべての相において描き出した作品は全く類を見ない。シェクスピアが出てきたのは十六世紀である。それまでのものは単なる昔語りや記録の類にすぎない。日本では多くの人が、「源氏物語」を優雅な平安朝の貴公子による女性遍歴の物語位にしか捉えていない。なまなかの日本人より、外国人のドナルド・キーンさんの方がはるかに「源氏物語」の素晴らしさとその本質を捉えておられる。

 使っている教材は、「小学館」発行の「源氏物語」で、上段にはそのページの用語の説明と、下段には口語訳が記されているので理解がしやすい。谷崎の「源氏物語」(初版本)も併読しているので言葉の持つ微妙なニュアンスの違い等が訳語によって生じてくる点等も興味深い。

 「初めに言葉ありき」である。私達は言葉によって生かされもし、殺されもする。日本語の豊かな原点の一つでもある「源氏物語」を読むことによって、更に自らの言葉の世界を深めていければと思う。

 この会が教会活動の「交わりの場」の一つとして、神に仕える器としての自己の内面をより豊かにしていく一助として、今後もこの活動を続けていきたいと願っている。

 

 なお、聖書の詩編も合わせて読んでいることも付け加えておきたい。