あるがまま

                   I.Y. 

 

父を送ってから20年、兄を送ってから13年になりました。ずいぶん年が経ったな、と感じております。当時からしてみれば、いま塚口教会の長老としてご奉仕させていただいているなど想像もつかなかったでしょう。

聖歌隊のメンバーのひとりとして教会へ再び来る事をスタートさせ、父が召された事がきっかけで翌年にバプテスマを授かり、会員として今にいたっておりますが、父のように指揮者としてリードしていく術がある訳でもなく、兄のように流暢に歌い上げる術がある訳でもなく、ただ、礼拝の中でお話を聞き、讃美歌を歌えれば、それだけで心は満たされる、といった思いでした。実際に満たされていましたから、本当に…。それが何年か経って教会内のお役目の話、教会学校教師の話をいただきました。教会内における人との関わりが増え、教会生活をしていく上でいろいろと学ぶ機会を与えられました。

教えるのはとても難しいですね。子どもたちに聖書の教えを正しく説くには、聖書箇所をほぼ完璧に理解しないといけないのかなと思っておりますが、その箇所を正しく理解するなど自分にはおそらく出来ません。だから自分なりの解釈によって話をし、一緒に遊んで時間をともに過ごす、といったやり方をしています。こんなのでいいのか、と考えたりする事もあります。間違った解釈であれば、それがそのまま伝わってしまうかもしれない、子どもたちにとってその礼拝がよかったのかどうかわからない。でもそう出来ないものは出来ない、自分に出来るものを自分なりに表現出来ればそれでいいかな、と。

こんな感じで過ごしておりましたので、ずいぶん前に長老のお話をいただきました事についても、本当にこれでいいのだろうか、と自分に問い続けていました。自分なんかとても務まるものじゃない、相応しくない、引っ張っていけない、自信がない、等と。でもある時、礼拝でのお話を聞いている中で、これは普通の「わがまま」ではなく、神さまの御心に背いたそれなのではないか、と思えてきたのですね。この「わがまま」を通し続ければ、神さまは本当に僕を見放してしまうかもしれない、と思ったのです。神さまからしてみると「そんなに委ねられないのか」といったところでしょうか。だから今回再びお話をいただきました時には黙って首を縦に振るつもりでした。

この年齢になっても尚、自分自身では人としてまだまだ足りない部分が多いと感じております。兄が41歳にして召され、僕はこの年齢を超えられるのか心配でしたが、何とか超える事が出来、ほっとしております。そしてここまで無事に過ごす事が出来ており、人との関わりの中で本当に多く助けてもらっている、守られているな、と感じております。

この一年、長老としてご奉仕させていただきますが、まだまだ不安なところが拭えないでおります。はたして僕にはどんな働きが出来るのか、どのように神さまは僕を用いて下さるのか。いろいろ思いは巡りますが、無理なく今出来るものをすればいい。その時に持っているものを、それ以上でも、それ以下でもなく出すだけでいい、あるがままでいい、僕はそう考えています。

その時々の教会がほんの少しずつ豊かなものになる為に用いられれば幸いです。

 

どうぞよろしくお願い申し上げます。