妄想    

                         T.N.

年を取ってくると過去を振り返ることが多くなった。

森鴎外は49歳から50歳にかけて「妄想」という文章を書いたようだが、これに倣って私も自分の人生を振り返ってみよう。

15歳でイエス・キリストを主と告白して松木治三郎先生から洗礼を受けた。自由に生きてきたつもりだが、結局このことが自分の人生を決定づけ、そこから離れなかった。

大学に入学した時からくすぶっていた学園紛争は学部2年の時から熾烈を極め、半年に及ぶ学園封鎖が2回も行われた。学生も助手も講師もストに参加していたから教授が交代で1000床の病院の当直をしていたこともあった。1学年上の先輩は卒業が1年遅れ、我々は半年遅れた。

そのような状況で、日曜ごとに聴く松木先生の説教と、青年会で話された一言隻句を記録し、それに養われた。

インターンが廃止され新しい研修制度が始まった第3期の研修医として病院に配属された。6年務めると学ぶべきものはすべて学びつくした気になって、マンネリを感じ、現状に満足できなくなった。そこに厚生省へ出向する話があり、3年間医療行政に従事した。視野は広くなったが、患者を診ることへの渇望がどうしようもなく沸き起こってきた。日々臨床に従事していたことがいかに幸福であったかを認識した。思わず「神様、臨床に帰してください。」と祈った。以来、何があっても、どれほど苦しくても臨床を離れようと思った事はない。

多くの引き止める声を押し切りようやく京都へ帰ってきたが簡単には行政から足を洗わせてもらえず、5年間近畿地方医務局で行政と医療の2足の草鞋を履くことになった。

東京にいたとき同窓生は無条件で信頼でき、助けあえる存在だったが、帰ってくると同窓生は熾烈な競争相手や敵にすらなった。一方で病院の所属科のレベルを全国レベルに挙げることに必死の努力をせざるを得なかった。厚生省にいるときに始まった救命救急センターを病院に導入し、運営することに専心した。近畿地方医務局では薬剤師の臨床業務を全国に先駆けて国立病院に於いて始めた。

関西に帰ってきてから聴いた松木先生の説教はすべて記録した。それは段ボール箱1杯になった。東京にいた3年間で教会の雰囲気は大きく変わり、違和感を覚えた。それを率直に松木先生に申し上げた。

鴎外が「死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。」といったのは49歳の時である。私は70を超えてやっと人生の下り坂を下って行く感覚がわかる様になった。鷗外はまた、「多くの師には逢つたが、一人の主には逢はなかつた」といった。私は唯一人の師に若い時に会い、そしてこの恩師によって一人の主に会ったことは人生における最大の幸福であった。振り返れば一人の恩師と、一人の主に導かれて生きてきた人生であった。

 

仕事柄多くの高齢者に接することが多い。そういう人生の先輩は、「80歳になると70代の時とは全然違う」と口々に言われる。また「80になると違う、85を超えるとまた違う」と言われる方もいる。これからの人生、一日一日は未知の領域である。今、私は毎朝、「今日一日、主は私に何を見せてくださるのだろう」と希望をもって目覚める。永遠の朝に目覚めるまで、希望をもって人生の下り坂を下って行きたい。