神様はあなた一人を

                   K.I.

この原稿を書くにあたって、私の最も好きな聖句を紹介したい。

  あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しにいかないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

(「マタイによる福音書」十八章十二節―十四節)

 この聖句に出会ったのは今から三十年以上も前の大学生のとき。大学のチャペルの時間であった。この聖句は神様の愛を最も端的に示している箇所の一つだと思えてならない。通常の論理で言えば、九十九匹と一匹であれば、誰もが九十九匹の存在の方を重んじるはずだ。「迷い出た」一匹は、「仕方がない」ということで、諦められ捨ておかれるのが常道である。

 ただ主なる神様は違う。神様は、「迷い出た」一匹も諦めることなく徹底的に探されるのだ。つまりそれは、罪を犯した迷い人を忍耐して悔い改めるまで主のもとに立ち返るまで呼びかけ続けられるのだと換言できよう。大学生になるまでは、多数決でものごとを決めるのが普通であった。いわば「数の論理」に従うのが通常のルールであった。しかし、主なる神様は、大勢の中の一人として人間を見ておられるのではなく、「個」を一人一人として優しいまなざしを注いでおられる。そして罪深い私、迷いでた私であっても神様の方から私を捜し見つけ出してくださる。「数の論理」ならぬ「神の論理」に基づいて神様は徹頭徹尾愛の方なのである。これに気づかされた私は、この聖句が心の中に沁み通るのを感じた。そして心が自然に傾く形で大学院生になったときに、洗礼を受ける決意を固めた。

 以来私は何かあるたびにこの聖句に立ち返っていくことになった。悲しみのとき、うれしいとき、重大な岐路を迎えたとき、そして罪を犯したとき。神様が私という個人を見つけて「迷い出」ても捜しに来てくださることを信じ続けた。聖句が私を慰めて励ましてくれるのである。

 このように神様が「個」を見つめてくださる愛をもう一つ紹介したいと思う。それは三浦綾子のエッセイの中の一節である。それは「イエスはあなたひとりのためであっても十字架にかかって下さったであろう」というものだ。教会に来ればイエスキリストが万人の罪の贖いのために十字架にかかって下さったというのはよく聞くメッセージである。ただこのエッセイによると、イエスキリストというお方は、万人はおろか、たった一人の罪人を救うために十字架にかかってくださる愛を持っておられる方だということである。あなたの一人の罪をも放っておかれない方なのである。十字架の上で肉を割かれ血を流されながらもあなた一人を愛してくださるのである。

そのように見ていくと、神様は「数の論理」を重視し大勢を重んじるというより、迷い出たあなた一人を探し出し、イエスキリストは罪の赦しのゆえあなたのために十字架にかかってくださったのである。そして一度神様に出会った方に対して、あなたの方はそれほど深く神様を問題にしなくても神様は神様のほうであなた一人を問題にしてどこまでも同伴してくださるのである。どうぞ神様に出会うために、また教会においでください。