説教九五篇の跡下
I.N.
毎月第2金曜日に開催される婦人会では、松木治三郎先生の「説教九五篇の跡 下」をテキストとして読んでいます。
「一篇は短くなっているが、かえって読みやすいかと思う。」と前書きに書いておられるように読みやすく、毎回村岡先生、大仁田先生の教えを頂きながら読み、みんなで自由に考えを述べ合ってきました。それも、もうあと一篇を残すのみとなりました。どのページも、開くと松木先生のお声が聞こえてきて懐かしい思いがします。
そのサブタイトルに惹かれて、私は毎晩寝る前少しの時間、その日読みたいと思ったところを開き、日付を記して読み始めます。なかでも「今は、何の時か」の篇には多くの日付がついているので、この篇に私の心が求めていることが書かれているのでしょう。
「昔は、どこの城にも、夜、目を覚まして、見張る不寝番、時を数える夜回りがいた。」で始まる「今は、何の時か」は、不思議な驚きに満ちていて、引き込まれました。
「時」とは何か、今は暗いけれど、朝がやってくる。また夜は巡ってくるけれども、イスラエルがそしてユダヤ人が聞いて信じて待っている時、永遠の朝が来る。しかもそれがユダヤ人ではないあなたたち、が「父を礼拝する」時が来る、いや、今はその時だ、と(ヨハネ4:21)書いておられます。
神様は見えない、神様のことはよくわからないけれど、イエス様によって示された。土から生まれた死すべき私たち人間を救う力、新しく生まれ変わらせる霊、枯れた骨を生かし、無から有を呼び出し、罪人を赦し自由にする、生命の霊である…と松木先生のお言葉がずっしりと響いてきます。
今日はみ心にかなう行いができただろうか、神様の御用が果たせた日だったろうか、と自分に問いかけると答えはいつもノーであり、自分の至らなさ、人間としての弱さを痛感せざるを得ない。そんな中、松木先生のこのご本は、そのままのあなたで良いのだよ、赦されているのだよ、と言ってくださっているようで、罪深い私の存在を肯定し、愛してくださる神様の深い愛―それはイエス様の十字架によって示されている―を感じ、安堵して眠りに就くことが出来るのです。
今月の婦人会では「万物の主イエス」を読みました。
「私は今日までいつも、イエス・キリストの他は何も知るまいと思い続けて参りました。」で始まるこの篇には、イエス様の生き方と死に方、すなわち自らを低くして十字架の死に至るまでみ心に従順であったイエス様のことが述べられています。
自分の力によってではなく、全能の父なる神によって万物の主とされたイエス様。人の生きる目的は、神の栄光をあらわすこと、とあります。私たちは自分の心の中に、イエス様を呼び続けることによって、父である神様に栄光を帰するのです、と。だから私たちは新しく作りかえられつつ、生き生きと真実に礼拝しなければならない…
松木先生がいつもおっしゃっておられた「今にわかる」というお言葉。今日までこの言葉を胸に覚えてきて、まだまだわからないことばかりです。どうかわかる時が与えられますように。それまで自らの心と思いを清められ、祈り続けていきたいと思っている日々です。
