神から与えられた松明 (たいまつ)            

                 T.M.

 村岡牧師が7月20日の礼拝説教で言われていた、神から与えられた松明。私たちはそれを意識して生きているでしょうか。恥かしいことに私はお話を聞くまで意識をしていませんでした。松明の光は、自分の前に続く道を照らすもの。でも、正しいものを映し出す光でなければ間違ったものを見、間違った判断をしてしまう。

 私は今まで幾度となく、自分の独善によって灯された歪んだものを映し出す光を頼りに、間違った道を正しい道と信じて突き進み、多くの人の心を傷つけてきた気がします。自分が正しいとの過信からそうした行動を取ってしまったのです。私が持っていたのは神から与えられた松明ではなく、どこかで自分で調達した、まさに自分に都合の良いものだけを照らす松明でした。

 コミュニケーションを行う際に陥りやすい落とし穴として3つがあると言われています。1つ目は、メッセージの送り手側の問題としての「フィルタリング」と呼ばれるもの。これは、受け手に好意的に受け入れてもらおうと送り手が情報を操作することで、例えば偏向報道などがそれに当たります。2つ目は、受け手側の問題としての「選択的認知」というもの。これは、複数の異なる方向の情報から、自分の関心・嗜好に沿った特定の情報のみを無意識に選択したり、自分の期待に沿った解釈をしてしまうというもので、SNSインフルエンサーのフォロワーなどが陥りやすいバイアスです。そして3つ目が「文化的差異」。これは海外の人や世代の違う人とは同じ言葉やジェスチャーを用いても、背景や価値観によって受け止め方が異なったりすることです。

私自身、これらのことがわかったのは、残念ながらようやく管理職が終わろうとしていた十年ほど前の頃でした。それまでは、おそらく多くの同僚や若い方々、また家族にも自分の考えを押し付けてしまっていたと思います。その頃にようやく思い至ったのは、人間一人の考えなど、所詮狭い範囲での取るに足らない判断に過ぎない、ということです。私は無力感を感じました。また、これまで自分がやってきたことに対する後悔の念からいたたまれない思いでいました。

そんなときに私を救ってくれたのが聖書の言葉でし

た。そして、これまでの説教を通じて、神から与えられた松明は必ず真実の姿を照らし、正しい道に導いてくれるという思いを持てるようになりました。自分ファーストの部分最適ではなく、神が教える利他に基づく全体最適を目指した共通の松明。これを自分の中でしっかり意識するには、同じ松明を掲げる多くの人々の光を見つけなければ。そうした思いでいると、ふと若い頃に好きだった歌の歌詞を思い出しました。

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きこえるよ きこえるよ 誰かの声が

待っていないと思ってた 誰かが待っていた

自分の言葉だけを信じ続けてた 

この静かな旅はもうすぐ終わる

愛を一つ胸にかかげて行こう 

ぼくらの行く先には何もないから

愛を一つ胸にかかげて行こう 

後に続くみんなの 光になるから     

      〜 槇原 敬之 「足音」より

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 長い間、道に迷っていた私ですが、今にして思えば、妻が神様から与えてもらった松明の光を、知らず知らずに私も追いかけてここまで来れた気がします。そして教会には、松明の光で周りを照らされている方々が数多くおられると感じます。これからは自分がかかげた光が誰かの目にとまりますように。それを願って神に祈ります。