浅越様に届きますように
M.M.
若い頃、バッハゆかりのライプチヒに夏期講習を受けに行った。当時分断された東独とは国交がなく、ライプチヒには国賓という形で入国し、オルガン専攻は偶々長身の人が多く昼食先で「日本のバレーボールチームか?」ときかれた。
バッハが最後の音楽監督を勤めた聖トーマス教会とライプツィヒ音楽学院で交互にレッスンを受け、コンサートや選抜メンバーによるラジオ収録も体験させて頂いた。学院での指導教授は、シュッケ社社長の娘婿で、シュッケオルガンで礼拝している事を告げると大変喜ばれた。トーマス教会での練習では、階下で観光客が聴いているので部分練習等は避けて欲しいと言われた。が、6秒もある残響の中で多重フーガを演奏するには音が重なりあって大変だった。
オルガンを入れる時、塚口教会では説教を取るか音楽を取るかで意見が分かれ、説教を優先した結果、残響のない設置設計がなされ、奏楽者としては少し残念な、けれどもお説教がしっかり伝わる、流石「み言葉の教会」と言われた塚口教会の、神様に喜ばれる正しい選択だったと思う。
講習会終了後、少し南方のレータ教会でも、歴史的なジルバーマンオルガンで演奏会をさせて頂いたが、このオルガンの調律は約全音(ド→レ)ほど高く、絶対音感のある友人は楽譜に書かれている音と鳴らした音がずれていて頭痛がすると、悲鳴をあげていた。
自分に欠けているもの(絶対音感)にも見方を変えて感謝する機会を神様が与えて下さったのかも知れない。(苦笑)
コロナ禍でリモート配信をする教会が多くなり、実母を介護していた時、母は旧讃美歌に愛着があり、旧賛美歌で、当時でも全節省略せずに歌っている教会があって、京都で通う教会の配信以外に、平日にその教会の礼拝を母と共に拝聴した。
YouTubeだと好きな時に母に聴かせられ、これはコロナ福だと、思いがけない恵みに、神様のなさる事はその時々に叶ってうまく備えてくださるものだと感謝した。
が、その教会のオルガニストに作曲能力があり、又時にはバイオリン演奏が加わり、どちらも音大出でプロ活動もしておられどのように讃美歌アレンジするのか正直興味もあって視聴し続けたが、讃美歌の2節と3節の間に必ずアレンジ間奏が入り、バイオリンのオブリガート(装飾旋律)が歌いあげ過ぎて歌詞に集中ができず、逆に会衆の歌声の邪魔をしているようにも感じられた。
まるで音楽会のような礼拝になる時もあり、これは他人事ではなかった。教会奏楽者の陥りやすい誘惑である!
演奏家と奏楽者の違いは何だろう?
前者は音楽を用いた自己表現者であり、後者は礼拝や会衆の讃美歌を支える裏方である。そのため、教会オルガンの多くは人の目に触れない後方2階に設置されている。
私も自己満足のためにテクニックのひけらかしをしていないだろうか?
奏楽でなく、「演奏」をしてしまっていないだろうか?
ミスした時に、礼拝の流れを止めてしまったと反省するより、「演奏」の出来不出来で一喜一憂している事はないだろうか?
それを避けるために、私は右手の前から2列目あたりにイエス様が座っておられると想定し、そこに向けて音楽の捧げ物をしようと志した。
でも、不信仰な私は今もミスした時、そこにイエス様のお姿はなく、会衆のかぼちゃ(失礼)が冷笑して座っている。困ったものだ!
信仰が試されているなあと、今日も楽譜に向かっている。
注:昨年亡くなられた浅越様は、生前伝道委員として「オルガン設置50周年を記念して」の文章を寄せ下さいと、介護を理由に断り続ける私に何度もお電話下さいました。
浅越さん、やっと塚口のオルガンに対する思いをつづりました。天国でご覧下さいね。ごめんなさい。
