理解者イエス                                 

              K.F.

  クリスチャンではなかったが、太宰治は新約聖書をよく読んだ。

昭和21年4月の書簡で、太宰は次のように書く。

「私は優という字を考えます。(略)この字をよく見ると、人偏に、憂うると書いています。人を憂える、人の淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れている事じゃないかしら、」

 太宰は、人が生きていくことの「淋しさ侘しさ、つらさ」を掬い取って、文章に定着させることが巧みであった。小説『斜陽』(昭和22年)の主人公かず子の言葉を引用しよう。

 「どうしても、もう、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか」

 「生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。」

 また、『二十世紀旗手』(昭和12年)の有名なエピグラフ「生れて、すみません。」は、人間が存在すること自体の苦悩を見事に言い得ている。(実は、この言葉は太宰の独創ではないのであるが……。)

 こうした太宰治の作品に、私は若い時から随分と慰められてきた。

 だが、考えれば、イエス・キリストこそ、人間の「淋しさ侘しさ、つらさ」を理解してくださる方であった。取税人を招き、姦淫の罪を犯した女を赦し、長血を患う女や盲人を癒すなど、当時の社会で差別されて苦しみを抱えて生きる人々をイエスは顧みた。

 また、ペトロの離反を予告する際も、人間の弱さを知り尽くしているイエスであった。

 それに比べると、ユダに対しては、イエスは酷薄であるように見える。

 「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」(『マタイによる福音書』26章)、「しようとしていることを、今すぐするがよい」(『ヨハネによる福音書』13章)と、ユダに向ってイエスは言う。

 これは、次のように解釈できないだろうか。まず、十字架への道が用意されるには、ユダの行為は必然であった。さらに、ユダはユダとしてしか生きられないことをイエスは知っていた。そこから上記のような言葉を発せられたのであると……。

 

 イエスは、人間というものを理解していらっしゃった。